JIC通信二〇七号   二〇一〇年四月二〇日発行
伊予の松山 木屋町(きやちょう)だより



『空っぽの墓が復活のしるし』
								森    優牧師
ルカ福音書二四章一-九節
松山ルーテル教会にて
二〇一〇年四月七日




						発行人    森    園子
発行所    森優伝道会
790-0821松山市木屋町四丁目三-二
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郵便振替01680-7-68678 森優伝道会

イースターおめでとう
  今日はイースター、イエスさまの復活の日です。全世界の教会で、盛大にお祝いしていること
でしょう。
わが松山教会も、今年は、にぎやかに、音楽も取り入れて、イースター礼拝を守ろうと、心に思
っていました。しかし、牧師であるわたし(森)の気力不足で、準備ができませんでした。それ
でも、女性たちが手分けして、おごちそうを作ってくれました。食卓は華やかです。卵も五〇個
数ゆでで、色とりどりのセロファン紙に包まれています。四月の誕生会もいっしょにと、イチゴ
のバースデイケーキでなく、大きなバウムクーヘンが用意されています。こうして、きょうは喜
びを共にしましょう。みなさま、主の復活日、おめでとうございます。

お墓の中で罪の償(つぐな)い
  本日の聖書日課の福音書は、ルーテル教会では、ルカ福音書二四章一-一二節が選ばれていま
す。
イエスさまが、金曜日に十字架にかかり、息絶え、とり下ろされて、墓に葬られました。弟子た
ちは、ユダヤ人にイエスの仲間だと、捕まって、ひどい目に会っては大変だと、どこかの家に隠
れ、閉じこもっていたようです。幾人かの女性たちが、日曜日の朝早く、墓地にでかけました。
香料をもって行ったので、イエスさまの遺体に塗るか、ふりかけるかしようと思ったのでしょう。
それよりも、墓の蓋(ふた)をどう開けるかです。ほかにも墓が並んでいるのか、きっと、だれ
か男がいて、助力してくれると考えていたのかも知れません。
当時の墓は、丘や小さな山の中腹に掘られた横穴式であったようです。中には石の台があって、
死体は布でくるんで、その上に寝かせました。そうして、入口を石でふさいだのです。お墓参り
に行くときは、香料をもって行って、腐敗臭を消そうとしたのでしょう。
当時のユダヤ人の信仰では、このお墓の中でからだの腐敗がすすみ、一年かそこら経つと、骨だ
けになる。それから骨を洗って、きちんとした石の骨箱に納め、正式のお墓に入れなおしたよう
です。救い主が、エルサレムに天から降り立つという信仰があり、死者も、エルサレムを向いた
お墓に葬られました。このときが、本葬ですね。死んですぐは、仮の葬らいでした。
この、墓のなかで肉体が朽ちていくときに、死者には苦痛があるとされ、それが、罪の償いとさ
れたようです。

イエスさまに罪の償いはいらない
イエスさまの場合、わたしたち人間の罪を負って死に、墓に葬られましたが、まったく罪のない
方です。ですから、償罪のために墓に長く留まる必要はありません。エルサレムを望み見ての埋
葬も不要です。即、復活です。イエスさまは、救いを陰府(よみ)に伝えるために、一日を費や
しましたが、墓を破って復活されました。
これは、わたしたちにとっても、非常に大切なことです。わたしたちは、キリストによって罪赦
されたものです。わたしたちも墓にとどまり、罪を自分で償うことは必要ありません。イエスさ
まとともに即、復活です。
中世のカトリック教会は、地獄に行く、まったく救いのない人がいる。普通の人は、煉獄といっ
て、天国に行く前の苦しみのときがある。この煉獄の期間を短かく縮めるために、聖人やマリヤ
さんに頼もうとしました。マリヤ崇拝、聖人崇拝の起こりです。いまのわたしたちは、煉獄を信
じません。それよりも、イエスさまの十字架のゆえに、すぐ天国だと信じましょう。ちゅうちょ
なく、天に迎えられる。天で生きるのです。

天使が二人
さて、お墓に行った女性たちは、イエスさまのお墓のふたが開いているのに気付きました。中を
のぞいて見ると、遺体はありませんでした。聖書には途方に暮れたとあります。困ってしまって、
どうしていいか分からなかったということです。
そこへ、白い衣を着た二人の男が現われました。二人は、女性たちに、イエスさまが墓の中には
いないこと、生前に預言していたとおり、復活したのだと告げます。この二人の人のことを、ル
カ福音書二四章二三節に、「天使たちが現われ」、イエスの復活を告げたとあるので、天使だと
理解していいでしょう。
マルコ福音書には、白い、長い衣を着た若者がいて、イエスさまの復活を告げています。そこを
読んで、その若者が、イエスさまの弟子のマルコだといいなと思いました。イエスさまがゲツセ
マネの園で大祭司の手下に捕まったとき、マルコだと推測されている若者が、亜麻布の衣を着て、
イエスさまのそばにいました。マルコも衣をつかまれて、捉えられそうになりました。衣を相手
の手に残して、マルコは裸で逃げたのです。
そのマルコを、イエスさまは用いて、復活の証人として立てられた。その証拠が、新しい亜麻布
をまとわせられていることではないかと、信じたかったのです。人がイエスさまを見捨てても、
イエスさまはその人を見捨てない。ほんとうの尊い役割を与えてくださるのですから。
 しかし、ルカ福音書では、二人の人でした。山上の変容のときに、イエスさまの姿が白く輝き
ました。そこにモーセとエリヤ、二人の旧約聖書の最高の預言者が、やはり、輝きに包まれて現
われました。イエスさまの復活を伝えるのに、モーセとエリヤが現われたとしたいのですが、そ
れはないようです。ここは天使として、受け取っておきましょう。

復活を信じない先に復活の証人とされる
天使たちは、「なぜ生きている者を死者の中に探すのか。かねて、あなたがたいイエスさまが語
っていたように、十字架につけられて死ぬのだが、三日目によみがえられたのだ」と言います。
女性たちは、たしかに、イエスさまの復活の預言を聞いたと、思い出します。しかし確信はない。
復活したと言われても、まだイエスさまに会えない。すぐに町に戻って、隠れてひそんでいる男
の弟子たちに、見聞きしたことを報告しました。
驚きです。男の弟子たちのことを、ここでは(ルカ二四・一一)使徒と書いてあります。使徒た
ちは、女たちのことばがたわごとのように思って、信じなかったとあります。使徒というのは、
イエスさまの復活の証人として、世界に遣わされる人のことです。まだ、信じていないのに、も
う使徒とされているのです。
これで、人間の側の条件ではなく、神さまの召命、任命が先にあることがわかります。
ペテロだけが、ユダヤ人に捕まるかも知れないのに、墓地に走りました。他の弟子は、怖くて、
家を出ることができない。すくんでしまっている。これが、使徒の実際の姿です。     
ここも、ヨハネ福音書では(二〇章三節以下)、ペテロはもうひとりの弟子といっしょに墓に向
かい、若い弟子が先に着いて、空っぽの墓を確認したとなっています。
福音書に書かれていることが、食い違っていることが、その真実性を示しています。聖書が、相
談して、打ち合わせて書かれたのであれば、話は一致するでしょう。そのとき、真実味が薄れま
す。体験が違うままに記され、イエスさまの復活を照らし出すのです。

空(から)の墓が復活のしるし
きょうの聖書の箇所は、イースターに朗読され、説教される箇所として、伝統的な教会では選ば
れています。そこに読むのは、空(から)の墓と、信じない使徒たちです。そうして、このこと
が、イエスさまの復活の第一のしるしだということになるのです。
キリスト教の信仰は、キリストの復活を信じる信仰です。このわたしの信仰はどうかとすれば、
空っぽの墓を見るようなものでしょう。信じられないという気持ちが底にひそんでいる。復活し
たという告知はある。それを信じなければ、クリスチャンでないように言われる、言われそうな
気がする。マルコ福音書一三章一三節にも、復活の証言を信じなかったと、弟子たちのことを書
いています。信じない。信じられない。信じられる確実なことは、空の墓しかない。
このようにわたしの不信仰を、はっきりと認める。わたしも信じられない者の一人ですと告白す
る。すると、大きな転換が起こります。空の墓が、イエスさまの復活のしるしになるのです。わ
たしたちの不信仰があり、わたしたちが不信仰だからこそ、イエスさまは復活されたのだという
喜びになるのです。
イエスさま、お墓が空だったことを信じます。だから、あなたの復活を信じます。

空の卵はぼくのもの
  アメリカの田舎にフィルと呼ばれる少年がいました。ダウン症というのでしょうか、生まれつ
き、運動能力も低く、知能もやや遅滞していました。一〇人ほどの小さな学校のクラスで、フィ
ルは、遊びでもスポーツでものけ者にされていました。
  ある年のイースターに、クラスの担任の教師は、卵探しを考えました。固い紙で作った大きな
卵の中に、何かをつめて、校庭のあちこちに隠しました。子どもたちは、教師の合図でいっせい
に散らばり、見つけた卵を教室にもってきて、机の上に並べました。みんあで、ひとつずつ開け
ていきます。
最初の卵からはきれいな花が出てきました。「あ、これ、わたし欲しい」と、女の子が手をだし
ました。次の卵からは恐竜の模型が出てきました。「これはおれのだ」と、大きいこが叫びまし
た。ある卵からは、磨いた石がでてきました。「これは、ぼくがもらう」と、おとなしい少年が
言いました。「どうして。それ、石ころじゃないか」と、他の子が言います。「ぼくは、意志が
弱くて、意気地なしなんだ。石のようにしっかりした人になりたいからね」と答えです。
最後にひとつ、卵が残りました。フィルがまだもらっていません。「フィル、開けなよ」とみん
なが叫びたてます。フィルが、おずおずと紙の卵を開けると、空でした。何も入っていません。
「ええっ、どうして」と子どもたちは唖然としています。「先生、どうして空なの。入れ忘れた
の」。教師は黙っています。
フィルが言いました。「これ、ぼくのだ」。少年たちは、「だめだよ、何も入ってないんだから
」と言います。中には、「フィル、ぼくのを君にあげるよ」という子どももでて来ました。教師
は、うれしそうににこにこしています。
そのとき、フィルが言いました。「空っぽでいいんだ。イエスさまのお墓も空っぽだったんだか
らね」。
クラスの子どもたちは、フィルを見直しました。それからは、フィルもみんなの仲間に入ること
ができ、すばらしいクラスが生まれました。
フィル少年は、空の卵に空の墓を見、空の墓に復活のイエスさまを見たのでしょう。

松山ルーテル教会の三つのお祝い
  きょうは、松山ルーテル教会、三つのお祝いをします。
  第一は、イエスさまの復活のお祝いです。わたしたちの教会は小さく、力なく、信仰的にも空
の墓の信仰です。わたしは、今年は、にぎやかに、音楽も入れて、華やかなイースターのお祭り
にしたいと考えていました。しかし、エネルギーがわきません。何も準備できないままに、この
日を迎えてしまいました。それでも、女性の方々が持ち寄ったおごち
そうがあります。たくさんのゆで卵が、色とりどりのセロファン紙に包まれて飾られています。
四月のお誕生会も兼ねてと、奮発した大きなケーキもあります。
  第二は、大賀祥二さんの再出発です。先月、三月二十六日に、お母様の大賀幸子さんが亡くな
られました。この教会でご葬儀が営まれました。二〇年間、お母様を介護、看病されてきた祥二
さんの悲しみと、喪失感は大きいものでした。
  きょう、大賀さんが、イースター礼拝に聖壇の花をささげると、昨日、土曜日に自分で活けて
くださいました。これは、母の死を超えることができたしるしです。
わたしが翻訳して、ダイヤモンド社から出版された本に、ノーマン・ヴィンセント・ピールと言
う人の『積極的考え方の人生』(原題は、喜びと情熱の宝庫、現在は絶版)があります。その本
の中に、ピールが夏に母を喪って、 母を葬り、秋にさびしくてたまらなくなり、故郷の墓地を
訪れたときのことが記してあります。母に会いに行くのです。
空気は冷たく、空はどんより曇っていました。ピールは、落ち葉を踏んで、墓の前に黙然と立ち
ました。突然、雲が割れて、太陽の光が射しました。そのとき、ピールは、母の声を聞いたよう
な気がしました。「どうして生きている者を、死者の中に求めるのですか。わたしはここにはい
ません。いつも、あなたといっしょにいるじゃありませんか」。
ノーマン・ビンセント・ビールは、こうして、人生を再出発しました。
大賀祥二さんは、新しいぴかぴかの自転車を、お兄さんにすすめられて買いました。すばらしい
ことです。人生の再出発には、見えるしるしがともなうのです。

河野さんの受洗
三番目のお祝いは、河野征道さんの受洗です。タオル印刷をされているお父さまの手伝いをされ
ていましたが、どちらかといえば引きこもりでした。去年(二〇〇九年)五月からこの教会に来
るようになり、熱心に、朝夕と礼拝に通いました。昨年暮れに、スーパーの仕事につきましたが、
最近、勤務形態が不規則になり、礼拝に出ることのできない日も出てきました。
それで、受洗の準備が十分にできているわけではないけれども、人生をいま神さまに委ねてしま
おうと、復活祭での洗礼となりました。何よりもいいことは、大学の編入試験を受けて、心理療
法士になろうという目標をもっていることです。いまの仕事は、学費を貯めるためのものです。
自分が精神的に苦しんだので、同じように悩んでいる人の助けになりたいという志(こころざし
)です。このことが尊いし、この願いを起こさせたのは神さまですから、洗礼を受けるのに最善
のときです。
  大賀さんと河野さんの二人の名前を実名であげました。松山教会の家族ですし、みなさんに分
かっていることですから、はっきりお伝えしておきます。クリスチャンというのは、イエスさま
がなさったように人のために生きるのです。大賀さんは、長く病身の母の介護につくしてきまし
た。それだけに、悲嘆も強いものでした。その人が立ち直るように、わたしは祈ってきました。
  河野さんは、自分に閉じこもる傾向がありました。しかし、人のために勉強しようと考えはじ
めました。みなさんの生き方にも、二人はよい示唆を与えるものだと思います。

空の墓を突き抜ける
  このように、イエスさまによって生き方が転換することを「空(から)の墓を突きぬける」と、
わたしは言っています。それは、自分の内からは来ない。外から来るのです。自分の方から、復
活の主との出会いとは言えない。しかし、イエスさまの方からは、復活の姿を見せている。示し
ている。共にいてくださる。
クリスチャン・メラーというドイツの神学者の講演集(『説教の喜び』、加藤常昭訳、キリスト
新聞社)を読んでいましたら、ある女性の牧師が、自分の説教をコンピューターに入力していた
話がありました。
そのコンピューターでは、一般に使われない言葉が出ると、赤いアンダーラインが出て、この言
葉でいいかのと示すのだそうです。女性牧師の説教で、唯一、赤い下線が引いて出て来た言葉は、
「神への信頼」という語であったということです。「神への信頼」という言葉が、パソコンでは
意味不明になっている。現代のわたしたちの生きる世界では、そのような言葉はない。パソコン
にはそのままでは出てこないというわけです。
  わたしは、これを読んで、イエスさまの復活にともなう空っぽの墓のことを思いました。復活
には、なかなか、人は触れられない、しかし、空(から)の墓には出会う。復活のイエスさまが
立っているのに、見えない。しかし、空であることが、むしろ、そこにイエスさまがおられるし
るしです。
  

復活のイエスさまに出会ったしるしは方向転換
  復活のイエスさまに出会うのは、驚きとか、奇跡を見るというのではなく、生きる方向転換を
させられる、自分なりの使命感を与えられて生きることではないかと思います。大賀さんと、河
野さんは、方向転換ができた。もう充分にイエスさまの復活に出会い、自分の復活を感じている
のではないかと思います。
  教会の復活ということもあるのです。イエスさまは、マタイ福音書二八章二八節に、全世界へ
出て行って、福音を伝え、洗礼を人々に施せとお命じになりました。教会への命令は、伝道する
ことです。ひとつの教会が、次の教会を生みだしていくことです。これが、教会の使命です。イ
エスさまの復活に触れた教会の復活です。
  人間の集う教会だけを見ると、空の墓のようなものです。二年前の松山ルーテル教会は、空の
墓のようでした。しかし、よく見つめると、そこに復活のイエスさまが見えてきます。教会が伝
道しはじめれば、あざやかに見えてくるのですね。
次週日曜日(二〇一〇年四月一一日)の聖書日課は、ルカ福音書二四章一三節以下のところです。
そこでは、イエスさまが死んでしまったと、意気阻喪して、エルサレムを離れ、故郷に向かって
いた二人の弟子たちに、いつのまにか、見知らぬ人が同行している。復活のイエスさまです。復
活のイエスさまだと気づかされた二人は、また方向転換してエルサレムに向かいます。イエスさ
まの姿は、もう見えなくなっている。
これが、わたしたちです。これが教会です。イエスさまは、いつでも、どこでも、なにをしてい
ても、わたしと、わたしたちといっしょだと、信じて行きましょう。
(二〇一〇年四月四日、松山ルーテル教会、復活日礼拝にて